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2025年5月31日-6月1日 時々、遺構を訪れて記憶を新たにしている。跡地の整備も10年の節目を越えて、一段落と言ったところ。 表面上は、きれいに整備されて平和な光景が広がっている。忘れない努力だけはしているようだ。 今回は、南三陸防災庁舎から大川小学校、女川、そして小学校巡りをする予定。 |
![]() <<震災遺構:南三陸町防災庁舎跡>> |
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<<震災遺構:南三陸町防災庁舎>> すり鉢の底のような場所に、かつての防災庁舎がある。 最初からそのような場所に建っていたわけではなく、盛土をして土地をかさ上げした結果である。 平成7年(1995年)、行政庁舎の一つとして建設された。 チリ地震津波の際の最大浸水深2.4mに対して、海岸から600m、鉄筋三階建て、12mの屋上を持つ堅牢なものだった。 しかし、東日本大震災にともなう15.5mの津波は、天井のはるか上を超し、防災庁舎は床と屋根等を残して破壊された。 当初の6mと言う想定に、防災庁舎に残った職員のうち53名が防災庁舎に避難したが、生還したのはわずか18名だったという。 |
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<<南三陸311メモリアル>> メモリアルホールが新しく完成していた。 斬新なデザインの建物だ。 |
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<<南三陸町:震災直後の記録>> 震災直後の防災庁舎付近の写真。 復興工事で土地の高さが大幅にかさ上げされ、防災庁舎は、見えなくなってしまった。 広場の底に、かろうじて震災の跡を残している。 |
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<<震災遺構:大川小学校跡>> 既に何回か訪れている石巻市立大川小学校跡。 ここの教師・生徒は、津波がくるまで逃げなかった。津波が来るまでの時間を無為に過ごしてしまった。 以降に出て来る、それぞれの小学校との違いは何なのだろう。 ここら辺の経緯は、2015年8月の訪問時の記載に詳しく書いた。 やるせない思いが募る。 |
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<<震災遺構:門脇小学校跡>> 震災当時、まだ240名の児童が校舎に残っていたが、直ちに裏山である日和山に避難を開始した。 やがて6mを超える津波が押し寄せる。 さらに、多数の自動車が流され、ガソリンに引火して校舎は火に包まれる。 残っていた職員は、教壇を踏み台にして校舎伝いに裏山に逃げたのだという。 ここの例は、普段から訓練を受け、統率が取れていたケースだと思われるが、それでも、火災の発生などの想定外の事態に見舞われている。 三階建てと言うことに胡坐をかいていたら、火災に見舞われてどうなっていたのだろう。 なお、校舎入口両脇の立木は、震災後に芽生えたものだという。 歳月の過ぎる速さを思う。 |
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この校舎の外側の庇を使って、職員たちは裏山に逃げることができた。 |
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<<震災遺構:荒浜小学校跡>> ここの生徒と職員は、校舎の4階と屋上に逃げている。 仙台平野の中であり、適当な裏山もなかったのかもしれない。 付近は水没してしまい、その日の夜から翌日までかけて、自衛隊のヘリに救助された。 |
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<<震災遺構:中浜小学校跡>> 仙台市立中浜小学校。震災当時の在籍は、生徒59名、職員14名。 校舎は海岸から300m、揺れの強さから、2次避難場所の中学校まで行くのは危険と考え、全員で屋上に残った。 津波は、校舎2階の天井まで達した。 遺構には、津波の到達した高さに、ネットが張られている。 屋上から見ると、すぐ足元まで津波が来ていることがわかる。 |
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屋上には三角屋根の部分に屋根裏部屋がある。 普段は、備品などの倉庫になっていたそうだが、そこに、生徒教職員住民ら90人が避難し、翌日救助されるまでの一夜を過ごした。 屋上は、普段、生徒が上がる場所ではないため、階段は急勾配で狭い。 生徒が昇るのは大変だっただろう。 |
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<<震災遺構:請戸小学校跡>> 福島県浪江町立請戸小学校。 震災時、校舎には、82名の児童が残っていた。津波警報が出ると、直ちに、近くの裏山(1.5km離れた大平山)に避難した。 40分後、海岸から300mの距離にあった請戸小学校を津波が襲った。 津波は校舎の2階まで到達。 児童達は、大平山からさらに数キロの山道を歩き、その後、町役場まで避難した。 |
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体育館には、行われる予定だった卒業式の飾り付けが、そのまま残されていた。 |